生きても生きても
三島、寺山、太宰・・・思春期に出会うと、それ以後の見える世界を大きく変えてしまう作家達。自分にとっては西炯子がそれであった。高校生の頃、BLというコミックジャンルも知らず手に取った「水が氷になるとき」の中で、登場人物が器用に、そして不器用に生きていく様をどこか自分に重ね、他の短編集でも感受性を強く揺さぶられていた。BLだけに理解しにくい表現も多かったが、それでも西炯子が例え難い「空洞」を描いてくれることに、当時の自分は間違いなく救われていた。そして、それは今でも瘡蓋のように貼り付いたまま、時々その乾いた感触を確かめるかのごとく彼女の初期作品群を読み返すのである。
本書の巻末年表を見ると、初期以降の作品はほとんど読んでいない。このエッセイですら10年前の刊行である。時々映画化された作品の原作漫画として話題に挙がることはあるが、解る人だけ解るという感じでもない。あの頃、西炯子にも嶽野義人にも自分にもあった、埋まらない空洞はどこかに消えてしまったのだろうか。
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